湊坂の風景 平成8年12月ホームページ開設によせて
平成2年、はじめて九州福岡の地へ足を踏み入れました。1年間の単身赴任の間に、職場近くに大型団地が造成されていることを知り、第1期の分譲から申込を始め、2回目の抽選で、土地分譲に当たり、家を建てました。九州へ来ることをためらっていた家族も、この写真の長男から転校を希望し、平成3年4月からこの裏庭のある新居で家族4人の生活が始まりました。

住居のある町は、ごみの処理が有料です。生ごみは右の緑のコンポストに入れて腐らせ、古紙回収に出せない紙類は焼却炉で燃やします。
生ごみとか落ち葉は、この5月初めにこの位置で一杯になり、別の場所に移していましたが、7か月を経て11月末にふたたびこの場所へ戻って、中味は空になっています。

2-2-2、2まいめの岩本さん宅,H8.12.3朝9時前撮影
湊坂ソフトボールクラブ初代監督の岩本さんは、とても大胆で、平成8年の暑かった夏に、すっかり痛んでしまった生け垣のゴールドクレストをいとも簡単に植え変えてしまい、通りから庭が丸見えになりました。
パラソルの下で手前の家の道下さんと私と3人で酒盃を重ねていたら、道行く人がよく見てくれました。そのうち買い物帰りの家内が通って、促されて席をはずしました。岩本さんは本当に饒舌で、また私は無口で盃を重ねるだけで、誰かの中断がなければいつまでも酒宴は続きます。
拙宅、赤木邸,H8.12.4撮影。岩本さんと同種の家
平成2年3月末、福岡工業大学へ転勤のため、家内と二人で九州福岡市へ愛車クラウンを駆ってやって来ました。その頃は、岡山市から2時間かけて県北の新見市へ出、中国自動車道へ乗って、5時間かけてやっと古賀インターチェンジを出るといった状態でした。
福岡工大へ着いて、下宿探しをお世話になった豊福泰子さんにつれられ、学校近くの線路沿いの新築なったばかりの細長いマンションの1室にはいって、一体これからどうなるんだろうかと、不安な思いに駆られました。
取り敢えず、車で運んだ荷物を降ろし、近くの安売り店とか電器屋さんを回って2、3日かけてなんとか一人暮しの出来る環境を整え、家内を送って再び岡山へ戻り、退職とかの最後の仕事を終えて、今度は一人で、福岡市東区和白東の学生マンションへやって来ました。
それは、それは侘しい日々の始まりでした。こんなとこへ40歳間近にもなって住めるものかと、落ちついたと同時に家探しをし、1年後にこの家を建て、家族で移り住みました。
以来、7年が経ち、すっかり居着いてしまいました。転職の話も1、2度ありましたが、これだけの環境はなかなか得られないものとお断りしています。